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民報サロン振り返り(稲作の縄文と弥生と今)

現代のお米は年々需要が細って生産者には厳しい状況にあります。

米農家としては米の消費を促して米の価格を昔の様に復帰させたいと切に願っています。

しかし単純に「米を食べろ」「日本人は米を食べるべきだ」と促すのは自分には違和感を覚えて仕方ありませんでした。人に自分の商品を売り込むのに、「これを買え」と無理強いしてはかえって反発を促すことになりはしてないかと日々疑問に思っています。

洗脳・強制によって米の消費を促すのではなく、人の自由意志に働きかけて米への関心を促す事が正しいはずです。

そうするにはまず、米の歴史を調べて発信すること。その思いで民報サロン第二回の随筆には縄文時代と弥生時代の稲作を調べることにしました。

そもそもは、スタジオジブリの「となりのトトロ」で主人公である草壁姉妹の父親がしている仕事が縄文時代の稲作の研究だと何かで知ってから気になっていたテーマではありました。

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この本に直接書いてあることではありませんが、神道や仏教が日本に根付く以前の土着の新興によれば、稲作に限らず作物の生育を司る恵みの神様は冬の間山の上にいて、春になると里に降りてきて作物を育て、夏に実りを促し、秋に人々が収穫を終えるとぼちぼちまた山の上へと還っていくと信じられていたらしい。

よわよわしい程に小さい種子が自然の力で大きく育ち人間に恵みをもたらしてくれるそもそもの原理への疑問は昔の人たちにとってかなりの関心があったことでしょう。その説明として作り上げられた推論としては、彼らの発想力に愛おしさというか、尊敬の念を覚えます。

稲作農家として麦食文化の浸透に追いやられる今の米食文化の状況は切実です。だからこそ稲について歴史を掘り下げ、人々の関心を促すように発信することは大事なことであるはずです。

その試みである私の一手を第二回の民報サロンに込めました。この時も前回と同様、字数制限を逸脱して書き上げたものを担当者に丸投げして削ってもらったという体たらくでした。

この振り返りという機会に全文をここに掲示しますので、よろしければ読んでみてください。

 

稲作の縄文と弥生と今

 

稲作農家として就農して早5年目となりました。
今年も実に忙しい繁忙期を迎えてます。
いつもながら仕事に従事する中で圧倒されるのは、機械化が著しく発展した現代の農業です。
機械だけの話ではなく、今ある水田や水路の設備を作り上げた土木技術の途方もない労力の入れようには圧倒されます。
農業技術の進歩は現在進行形で著しく進んでます。
たい肥や肥料による収量への効果は大きく、草刈り機や除草剤の恩恵で雑草との闘いは100年前に比べればとても恵まれています。
最近の動向ではスマート農業といった情報技術の分野で作業を補助し、機械の自動化などで省力化へ向けた技術革新が進んでいます。
稲も品種改良を重ねて気候や病気に耐性を持たせ、同時においしさを追求したブランド米の開発が進み、コシヒカリ一辺倒の消費構造から多極化への試みは活発です。
これらのように稲作を発展させる力は昔から連綿と続き、変貌を繰り返してます。しかしながら営農人口や農地の担い手の減少に加え、米の消費の減少などの暗雲は深刻度を増しています。
日本の食事形態の西洋化の波に対抗して、米食を促すための努力は切実です。
こうした現状を見返して、私が気になったのは大昔の稲作の実態でした。
弥生時代から本格的に成り立った稲作の文化が、日本人の精神構造の形成に大きな影響を与えたと聞きます。
山林を目の前にした平地に広々と設けられた田園や作物が、季節ごとに色を変え姿を変えて人々の営みを包んでいた。
その光景は日本人の心に深々と根付いているそうです。
思えば、大都市の喧騒は人の遠い祖先が樹上生活を送っていた時の記憶が作り出した産物なのかもしれません。
コンクリートの建造物に取り囲まれた大都市の窮屈さは、樹林を生活圏としていた類人猿以前の先祖たちにとっての過密を極めた樹上生活の息苦しさと同じなのでしょう。
そういう記憶が遺伝子のように潜在意識の深いところに眠っているという発想は否定しきれないものがあります。
彼ら類人猿たちはやがて環境の変化で樹上生活から追われ平野を生存の場としました。
最初は捕食者たちからの防衛に苦しみ、狩猟技術に目覚めたことをきっかけに自然に対するオフェンスの姿勢を勝ち取りました。
その延長線上にある縄文時代には狩猟と農業を半々にこなしていたそうです。縄文人が稲を食べていた痕跡は見つかっていますが、当時に水田と呼べるものは無く、水陸未分化の湿地同然の土地にヒエなどと混じった状態で作物を採っていたとあります。
弥生時代以前には定住生活に移行し、自分たちの土地を精神的な拠り所としました。
定住生活に移行した要因として考えられるものとして、私は彼らの死生観の変化にこだわりを持ちます。
死への意識の高まりが埋葬の風習を促し、自分たちを自然から切り離す自意識への目覚めに結び付いたはずです。
自然と人間の二極化が起こり、自然に対して積極的に働きかけることを恐れなくなり、自分たちで環境を作り変える技術を身に着け、今のように水利システムとうまく組み合わされた水田の原型が作り上げられました。
今では基盤整備として国が水田の大規模な整備を行いますが、大昔の基盤整備の担い手は地元の共同体でした。
稲ほどの手間のかかる農地を必要としない麦文化である西欧に比べ、同調圧力が強いと言われる日本の特色は水田の発祥と密接なのかもしれません。
今でこそ肥料による地力の維持で常田が可能ですが、弥生時代では休耕を繰り返していたとあります。
それは田畑を山の神に返すという、自然への信仰の現れでした。
自分たちは自然の一部であるとの思想を捨て切ることはなかったのでしょう。
だからこそ飢饉や災害に苛まれながらも耐え忍んで今の稲作を残してくれました。
歴史に名を残すわけでもなく、今あるものを繋ぎ続けてくれた先人たちを思えばこそ、福島のブランド米である福笑いを彼らに贈りたいとの気持ちがこみ上がります。

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