民報サロン振り返り(水の旅人、雨の旅人)
去年の7月の民報サロンには武士道という少々お堅いテーマで書きました。
その次の担当は8月上旬。次に書くのは何か簡単で軽いものがいいなと考えてました。
いつもながら、取り上げるテーマはそのときの気分というか虫からのお告げというか、自分でもよくわからないきっかけで決めていました。
この時も自分の内部で隠れていた意識が沸いてきたというか、空から落ちてきたものを見つけて拾うような気持ちで決めたテーマが「水」でした。
自分の中での水への思い入れとして引き出されるものは、30年くらい前に見た映画「水の旅人」です。
「水」をテーマとした随筆を書くにあたって、まずはその昔見た映画をもう一度見返し、ついでに原作となった小説も読もうと思い立って探したものです。
まず映画のほうは動画配信サービスでの取り扱いは皆無。ドマイナーな先品となればDVDの在庫を問い合わせることにかけてはツタヤが頼みの綱となります。
近場で見つけたのは郡山市。仕事終わりに高速道路を走ってレンタルしてきました。久しぶりに観たときの感想は、記憶の中に残る映画の印象はもっと美化されていた事を思い知って衝撃だった事です。あの個性的な作風は今の自分には合いませんでした。
小説の方はアマゾンで検索しても購入できる状況では無くなっており、図書館の蔵書検索で探しました。いちばん近場で取り扱いがあったのは栃木県那須町の図書館。
休日のツーリングで出かけるにはちょうどいい距離だと思い、バイクで行ってきました。
初めて利用する図書館では利用者の登録作業など少々煩雑な手続きがあります。その事情でその日の図書館の職員さんにはお世話になったのですが、その人とは相性が良くて会話が弾みました。
民報サロンを終え、直接図書館に赴いて本を返却したのですが、いろいろ世話してくれたお礼にと思い、水のお題で書いた民報サロンの記事のコピーを持参しました。
文中の序盤にあるミネラルウォーターを否定する人の意見は、私の以前の職場の先輩の言葉です。自分の中でどうも論破してやりたいお題ではありました。
論破とは言っても記事で書いた結論には正直、無理矢理なところがあるかとは思います。
自販機などでよく見かけるミネラルウォーターの価値についての考査はまだ自分の中で続いてます。
今のところの答えとしては、やはりわざわざ自販機でお金を払って水を買うのは頭が悪いか気取っているのか、それともただの物好きなだけのような気がします。
それでも、あえて水の価値に意義付けするとしたらですが、ただの水にお金を払うのはもしかして宗教なのかもしれないと今のところは考えてます。
現代の怪しい新興宗教ではなく、もっと原始的で敬虔な感情からくる未知への不確定な信頼と表現するのがやっとですが。
そもそもは資本主義に立ち位置を取って語るのが間違いなのかもしれません。
もっとわかりやすい言い方をするなら、水を買う行為はちょうど、神社にお参りに行ってお賽銭を入れるとかお守りを買う行為に似ているという事です。神様の為の初穂料です。
とても綺麗な水を受け取るのに感謝の気持ちを表したいのだけれども、それをお金を媒体にして表すしか手段がないだけ。そんなものなのかもしれません。
駄文はこのくらいにして、ここからは民報サロンに掲載するのに福島民報社に送った文章を掲載します。
5回目の仕事ともなると文字数は規定の数に自然と収まるようになりました。民報職員による訂正箇所もどこだかわからないし、そもそも特に手を加えていないだろうと思います。
水の旅人、雨の旅人
ミネラルウォーターに価値は無いのでしょうか?
ただの水をお金を出して飲むのは気取っているだけだと言う人がいるほど、無理解な人は意外と多いようです。私は何か言い返したい気持ちではありましたが、うまい言葉が見つかりませんでした。
以来、味付けされた飲料水への疑問について考えたり、水の価値についての考査
が絶えません。
そこでふと記憶に浮かんだ映画がありました。もう三十年以上前の作品で、
「水の旅人」と言います。現代の少年が年老いた一寸法師と出会い、成長してい
く内容です。原作となる小説は「雨の旅人」と言います。一寸法師は自分が水の
精であり、自分と同じような存在が他の川のひとつひとつに宿っていると言いま
す。水の精は水源から生まれ、川の流れを下って海を目指す旅を定めとします。
やがては蒸発して死を迎えるのが、水の精としての運命でした。物語終盤では衰
弱した一寸法師を助けるために、少年は彼を川の水源へと運びます。一寸法師は
そこで転生して若返り、再び自分の旅を続けるために少年と別れることになりま
した。
作中、大雨によって山奥で遭難した少年に対し一寸法師が言い聞かせた言葉であ
る「水を受け入れろ」は意義深いものがあります。水の美しさ、水のありがたみ
などプラスの面を踏まえた上で水によっておこるマイナスの面である災害の渦中
にあって水の精が口にするその言葉には、水によって生かされる生物とし
て水の存在のすべてを受け入れるしたたかな思想を感じました。しかもそれをま
だ小さい男の子に悟すという難しさがあるはずのものを、少年は水の精との信頼
関係があってこそそれを乗り越えます。
そのいたいけな従順ぶりと水の精の自己犠牲が見せるクライマックスには、弱
い存在でありながらも力強さを内面に秘めるひたむきな印象にいじらしさがこみ
上がります。作品のラストでは水の精が生まれ故郷である水源を目指しまし
た。その水源という言葉につられて、私には登山の際に見かけた水場の様子が思
い出されます。
山を登るごとに水の流れは弱くなり、木々が絶えて藪や草むらしか育たないほど高いところまで来ると、川だった流れはいよいよ消え入りそうなほどに小さく
なります。さらにさかのぼると岩肌で行き止まりとなり、岩の隙間からほんのか
すかに流れ出ているのが私の知る水源の姿です。この小さな流れひとつひとつに
映画のような水の精が宿っていると思うととても愛おしく思えてきます。本当
に、川のひとつひとつに感情を持った小さな存在が宿っているとしたら、川が汚
れることに対して誰もが無関心ではいられないでしょう。
こうして水(雨)の旅人という作品を振り返って、改めてミネラルウォーター
の価値について考えてみると、私は人工的な添加物にまみれた飲み物というのが、水への冒涜(ぼうとく)のように思えてきました。
何も入ってない、何の変哲もないただの水というものの価値が見えてきた気がします。
水の精からの贈り物はストレートで味わうに限ります。