民報サロン振り返り(魔境、只見)
この度は幸運にも、福島県農業賞の受賞となりまして、数多くの方たちから祝辞のお声を頂きました。皆様からの御支持あっての成果であると思い、深い感謝の気持ちでいっぱいです。
事務所にはお世話になってる事業所から頂いた胡蝶蘭が所狭しと並んでます。稲刈りの繁忙期を終えたタイミングで祝賀会を予定してまして、その日に展示するまではずっとこのままになります。
出品先ではお店の許可を頂いて農業賞受賞のポップを表示しました。商品は道の駅あいづ湯川・会津坂下および若松市にある直売所のまんまーじゃにて販売しております。
稲刈りまっさかり。夜は寒く、日中は夏場のような暑さの中で仕事をしています。品種は五百万石、里山のつぶ、チヨニシキから現在はコシヒカリを栽培中。
籾摺り作業と紙袋詰め作業。
機械任せが進んだ現代でも袋を縛るところは人間の手作業になります。そこのところで人間の限界ができてしまうので、結局は機械の仕事は人間の限界に合わせて稼働を落ち着かせることになります。縛る作業も機械任せにできればいいのですが、そこまでするかと問われればよっぽどのことがない以上は導入見合わせとなることでしょう。
去年の春夏にかけて福島民報から頂いた随筆のお仕事の振り返りはこれで最後となります。もうまるまる一年たちました。随筆を書く前にテーマの資料となる本を読んでから執筆するという自分なりの取り決め通り、この時もテーマである只見線にうってつけと思われる本を二冊読みました。しかしいざ書いてみるとテーマは只見線ではなく只見川へとすり替えてしまい、読んだ本の内容も随筆の内容の一割も反映できてないような有様となりました。
この時の文章は自分の趣味であるバイクで走った只見川への思い入れが先行してしまった感じです。執筆を終えてみて自己満足に走ってしまったと自己嫌悪しましたが、民報サロンの担当者からは有り難くもお褒めの声を頂きました。
只見と言えば路線復旧が完了となった只見線の小出~只見駅間の運行の再開です。今月より只見線の電車は11年ぶりに全線を通常運行しております。小さくはない出血と見通しの開けない採算という悲観的な現実が待ち構える中で押し通したこの復旧が、全国的に進むローカル線の廃線ラッシュという世情を覆す力があるのかどうか。私はそれを固唾をのんで見守るのが関の山です。何か力になれるかとの思いを込めてのこの随筆ではありましたが、貢献できたかは知る由はありません。取り合えず、民報サロンの担当者に編集される以前の文章を全文そのままのものをここに掲載します。
あと、只見川沿いの国道をバイクに乗って上流に遡った映像記録をYouTubeに掲載しました。
魔境、只見
私が稼業としている蕎麦打ちが忙しくなって、久しく早朝のツーリングができなくて悶々としております。
早朝のツーリングで懐かしく思い出されるのは、只見川を柳津から上流の方へ遡っていく国道252号線の景色です。
真夏のまだ暗い時間帯の早朝、徐々に空が薄明るくなるのを眺めながら単車のヘッドライトを頼りに暗がりを走りました。
ダークブルーの色彩が空を染め上げるのに対して、谷を塗って走る国道252号線は真夜中の時間帯に取り残されたように暗いままでした。
単車でひた走る道路のすぐそばを流れる只見川の水面は綺麗な鏡面となって山と空の姿を逆さに映し出し、水面を境に山が上下に生えているように見えます。
会津中川に差し掛かる頃には、見上げる山々の上端を朝焼けの陽光が強烈に照らし始めて、影の部分とのコントラストが鋭く映えて見えました。
清々しい山水の景色の中で幾度も通り抜けることになるスノーシェッドは、庭園に設けられた回廊のように外部の風景と道路とのふたつの領域にささやかな隔たりを添えます。
只見川の最奥部である田子倉湖に臨む六十里越峠を駆け登れば、高所にいくつも設けられたスノーシェッドの連続が、朝霧漂う天空の柱廊を駆け巡る心地を与えてくれます。
田子倉湖の更なる上流に当たる桧枝岐村には奥只見樹海ラインがあります。
ブラインドコーナーと起伏に富んだ大ボリュームの隘路は通る者に覚悟を要することでしょう。
それに見合った醍醐味がこの道にはあるのです。
人里から遠く隔たった険しい山地の奥へと進むほどに心細さが募り、寂寞とした心境を私は感じました。
それでいて断崖の向こうに広がる奥只見湖とそれを囲む山岳の風景は、世界の果てというか人が踏み入るのを拒むような別世界の印象を私の中に強く残しました。
寂しさと美しさという組み合わせの感動は妙な感傷を湧き起こす力があります。
まるで泣ける映画のラストシーンのように、ひっそりとした静かな優しさに心が暖められる思いです。
自然の景色というのが、何故人に感動を与えるのか。壮大な自然の姿が、人の中に眠る何か古い記憶を呼び覚まそうとしているのかもしれません。
私はツーリングでいろいろな所を走る度に思うのですが、道路とはレコード盤に記録された音溝であり、そこを走る人間とはレコードを再生するプレーヤーなのではないかと、そんな考えに囚われます。
題名は只見川。そこに金山や三島などのパートが組み込まれているともいえるでしょう。
今でこそ自動車でならお終いまで辿ることができますが、鉄道では会津川口で途絶えています。
そこから先に向けた前線復旧への試みというのは、忘れてしまった懐かしい曲というか思い出を呼び起こすための回帰となるでしょう。
只見線は50年以上前の廃線勧告に関わらず長きにわたって稼働できました。
それは都市部に経済と人口が集中し、地方が切り捨てられようとする構造への反抗と意地があっただろうと私は見ています。
東に原発あれば、西に水発あり。
田子倉ダムと奥只見ダムという日本でも有数の規模を誇る二つのダムがひとつの水流に存在し、その他にも多数のダムが連なっているということは自然の厳しさと水資源の豊かさを裏付けています。
水資源の豊かさは川の浸食による峻厳な景観をつくり、自然の厳しさは裏返って里山に見出す安らぎの基礎を成します。
山、水、雪という東北絶景の三大元素が織りなす奥会津の秘宝。
そこを走るレコードの針は何を夢見て音を奏でるのか。
奥会津に宿る魅力が呼び起こす東北日本の切ない懐かしさを、この拙文にて分かち合えることができれば幸いです。