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民報サロン振り返り(月明らかにして、蕎麦花雪の如し)

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もう半年前となりますが、福島民報新聞社から頂いた民報サロンのお仕事三回目には、稼業である蕎麦をテーマとして取り上げました。

文中にも書きましたが、社会人としての自分の歩みを振り返れば蕎麦との縁を無視することのできない生き方でした。

初めて就職した裏磐梯のホテルでは秋から年末にかけての集客戦略で、他のホテルでもやってるような蟹からの脱却を模索してました。

そこで支配人が目をつけたのが、新そばシーズンということで蕎麦打ちと蕎麦を使った創作料理でした。

夕食レストランでは蕎麦打ち披露のポストが設けられ、私がその主戦力として抜擢されました。

巡り巡って今は自分の家に帰ってきて稼業に就いて蕎麦打ちとして本格的に稼働してます。

会津坂下町の蕎麦は北の山都、南の大内宿に挟まれ全国的な知名度は低いですが、太い一本棒を使った丸伸しの十割蕎麦として地元で定着しております。

独自性を材料に大内宿と山都に対抗して蕎麦屋街を建設するなんて古いやり方はもう通用しないでしょう。

私個人としては、このままふたつの有名なそば処に挟まれた、知る人ぞ知るマイナーなそば処という地位が好みではあります。

もしここにテレビなどが取材に来れば、坂下町の蕎麦の認知度が一気に高まって蕎麦の需要が急激に上がってしまい、それに追いつけない稼働率を必死になって回して私たちは消耗することでしょう。

テレビでの宣伝効果は一過性です。一年二年もすれば客足は急激に下がり、やがて忘れ去られます。

そうすれば大量消費に対応したはずの生産体勢は大きな空振りとなって、せっかくの設備投資その他は長きにわたって業務を圧迫する足かせとなるでしょう。

そんな未来図を描いて心にしまいながら、私は地元の蕎麦打ち達と一緒になって地元の蕎麦イベントに加わっております。

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不遜とは思いますがそんな風に自分なりの未来図を描いた上で反省したのは、自分には蕎麦打ちの過去についての勉強が不足しているということでした。

この際、蕎麦打ち文化の歴史に触れて見識を深めておくことは、坂下町の蕎麦文化の盛り上げ方にも地域おこしにもその方向性を作り上げる助けとなることだろうとおもいました。

これまで私が蕎麦に抱いていたイメージとしては、作物が育つには厳しい豪雪地帯で食いつなぎとしての価値しかなかった負け組の食料というものでした。

それが江戸時代には民衆の間で即席の手頃な麺料理として親しまれていたと言います。

当時の交通網の要所には必ずと言っていいほど蕎麦屋があったように、今で言えば差し詰め、ドライブインだかコンビニでありつけられる定番メニューみたいな存在だったのでしょう。

そこまで知って、蕎麦とは仕方なく食べていた不味いものというイメージはすっかり取り払われました。かえって蕎麦に関して好みのうるさい偏屈な愛好家がいたというのは、現代に限らずかなり大昔から蕎麦屋さんの悩みの種としてあったほどです。

戦前には信濃一号という高品質高収量の品種が開発され、全国での作付けが展開されました。

しかし信濃一号による蕎麦の品種の一本化に抵抗して、もともと地元で作付けしていた在来種を守るために地方が動いたという歴史もあります。

蕎麦が地方の郷土愛を刺激した一例として、私には印象に残りました。

人口も経済も文化も進学率も大都市圏に集中する圧力は集団就職の時代に見るように昔から大きな流れとして続きました。

それでもしばらくはベビーブームと好景気で地方の支えは保たれましたが、不景気と出生率の減少が地方の縮小に結びつき、過疎化に悩む現在に至ってます。

その大都市圏に集中する構造が今になって崩れ始めているという感触が無視できないほどに目立ち始めています。

大企業に勤める事よりも自分で会社を立ち上げるか中小規模の法人が新規の切り口を開いて成功するケースは某テレビ番組で見聞きする事からもわかるとおりです。

大量生産されたどこにでもある製品が安く売られていても、小規模の生産能力で手作りされた商品が強気の値段に関わらず市場に受け入れられている実態があります。

昔は大企業や大都市に集中する時代だったのが、今は独自性を武器に新規の活路を切り開く拡散の時代へと移り変わろうとしているのでは無いかと私は考えてます。

その新しい時代に合致した形で、これからいろいろな地方都市が立ち上がってくる未来が見える気がします。

望めるなら私の地元である会津坂下町もその流れに乗せることができた上で、加えてこの町に限らず柳津町や三島、金山などその周辺の山間部へと経済効果を波及させるという未来図を夢見てなりません。

とりあえず、その坂下町が町起こしの武器の一つとしての蕎麦の分野で、自分にできることをやりきる為に目の前の仕事に注力するのみです。

半年前に書いた民報サロンを振り返るための文章にしては私見が過ぎました。

これが半年どころか10年20年と大きな月日を経てから読み返す時には、自分は何を達成できているだろうか。今の思想に変化はあるだろうか。何を夢見ているだろうか。

そんな不安と期待の入り交じった気持ちがしてきます。まるでタイムカプセルを埋める時の小学生のような気持ちです。

自分が書いた民報サロンを今から10年後20年後に読み返す時には、せめて小学生から脱していたいと望んでやみません。

以下には民報サロン第三回投稿の完全版を公開いたしますので、ご自由にお読みください。

ちなみに題名は参考文献の中に取り上げられていた漢詩を引用しました。

 

 

 

月明らかにして、蕎麦花雪のごとし

 

今回は私が家業としている蕎麦について取り上げさせていただきます。
蕎麦の花言葉は、懐かしい思い出、喜びも悲しみも、あなたを救う、幸福とあります。
なんとも単純にはいかない内容です。バラなら情熱とか、ユリなら威厳とかみたいに一つの言葉にまとめることはなかったのだろうか。
花言葉というのはだれがどのようにして決めたのか、一人の高徳な人物が一方的に決めたものではなかっただろうとは思います。
たくさんの人たちが世代を重ねるうちに形作られ、今の形として定着したのが花言葉なら、蕎麦が人間との関わり合いの中で今までに辿ってきたものを総合すると一つの言葉には納まらなかったのでしょう。
その花言葉の真偽を計る素材の一つとして、私が辿った蕎麦との関わりが参考になるかもしれません。
私のそば打ちとしての家業は歴史のあるものではなく、趣味として始めた父の代を発端としております。
私が物心つく頃には年越しそばの手伝いをするようになり、今までに年末を平和に過ごした記憶はありません。
手伝いと言っても私はそばを練る「でっちり」の工程止まりで、そこから先の「延し」「切り」には興味を持つことなく成人しました。
転機が訪れたのはホテルマンとして裏・表磐梯で働いていた時のことです。秋冬シーズンの集客戦略としてどのホテルも一様にカニの提供に注力していたところを、私のホテルでは路線転換して独自色を打ち出すのに担ぎ出したのが蕎麦でした。
私は磐梯町の山中にある「そばさだ」で初めての本格的なトレーニングを受け、ホテルレストランでのそば打ち披露のポジションを務めることになりました。
それまで大して興味を持つこともなかった蕎麦打ちが、急に私を支配するようになりました。
俗な言い方ですが、蕎麦の神様が私を追いかけてきた。そんな感覚がぬぐえません。
実際、今では蕎麦打ちなるものが家業としてもそうだし、人とのつながり、地域とのつながりとしてすっかり私を取り囲んでます。
今のこの段階で先にあげた花言葉と照らしてみても、なんとも符号するところは無いように思えます。
別に懐かしむほど年月を積み重ねたわけではなく、目立って浮き沈みがあったわけでもなく、幸福かと言えば忙しさが増したとしか言えず、ただ言えるのは日本に根付き郷土に育まれ今ある形としての蕎麦の食文化に自分が生かされている事に尽きます。
とりあえずは、「救い」の二文字に尽きるのが今の私からひねり出せるキーワードとなるでしょう。
福島県会津地方へのそばの伝承は信州を起源とします。良質な蕎麦を育む環境に恵まれた信州は会津に限らず、出雲・山形・出石など今あるそば処各地に流出しその礎となりました。
会津坂下町の場合は信州の流れに加え、山都と大内宿との角延し蕎麦の名所に挟まれながらも十割と丸延しにこだわる点には奥只見の桧枝岐村に行き着いた平家の落人の裁ち蕎麦からの加味もありそうに思えます。
会津坂下十割蕎麦の発祥は金山町にあり、そこから会津坂下町高寺地区の加藤そば道場が支流となりその流派が坂下町の蕎麦打ち文化を主に構成してます。
ちなみに坂下町北端となる長井地区は戊辰戦争の頃は鶴ヶ城の非戦闘員たちの疎開地という歴史があり、会津藩直伝のそば打ち文化が残された場所となります。
私は自分の流派への帰属意識が薄く、勉強のつもりで門外のそば打ち体験に行くことが度々ありました。
その中で近藤勇の墓がある若松市の愛宕神社に斜向かいとなる桐屋夢見亭のそば道場に習ったことがあります。
そこにはそば畑の写真が飾られており、一面が雪原とも見まがう見事なそばの花の景色が映されてました。
その真っ白な色彩の中にひとつだけピンク色の花が混じってます。店主が教えてくれましたが、先祖返りというものでした。
日本の蕎麦の祖先種はシベリア大陸の高地に自生しており、韃靼そばと同じように赤い花を咲かせます。
日本の蕎麦は白色ですが、たまに祖先種と同じ姿で育つ個体が混じってしまうそうです。なんとも神秘的な特性だと感動しました。蕎麦は自分たちの始祖の姿に目覚めることができるとは。
人間の場合でも、先天的な知的障害者は人間に意識が芽生える以前の古代人の姿であるとの説があります。(出典「神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡」ジュリアン・ジェインズ著)
人と蕎麦の共通点についてもうひとつ、人間の身体の水分量が蕎麦と同じという話もあります。
これは宇宙の元素の組成比と、地球上の生命を構成する元素の組成比が同じという話に繋がる気がして止みません。
宇宙は生命であり、蕎麦は人である。そんな妄想を掻き立てます。

 

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