山本五十六の「誠」の思想と熱塩加納小学校の食育
大分前ですが、山本五十六記念館に行ってきました。
田植えの繁忙期を終えての落ち着いた日常を取り戻した6月の中旬のことでした。
とある友人から本(↑)を借りていたのですが、一年以上借りっぱなしだったので、お返しに何かいい物をと思い、足を向けたのが新潟県長岡市にある山本五十六記念館でした。
記念館で思いがけない発見をしたのが、山本五十六の「誠」という思想についてでした。
山本五十六は20世紀初頭の西洋で流行していた思想である、「真、善、美」について独自の解釈を加えました。
「真、善、美」とは簡単に説明すれば、何らかの物事が最大限に完成された時、それは真実であることと、良い(善)ことと、美しいことの三つが同時に成り立っているという事を現した言葉です。
山本五十六はこれら真、善、美の三つを「誠」という一つの文字に集約させました。誠なるものは真実であり、誠なるものは良き事であり、誠なるものは美しい。
この考え方によるなら、人には真理への探究、正義、美学を求めて生きるように心がけるのが道理であると言えるでしょう。その生き方が、「誠」に尽くすという生き方です。なにか武士道的な響きが意識されてなりません。
美大出身であり、稲作という農業の一分野を生業とする自分にとっては、「美学」を切り口とした「誠」へのアプローチについての思索に捉われるようになりました。
現代の農業は大きな歪みの中にあります。特に日本にとっての稲作は農業の歪みの中でもトップクラスと言えるでしょう。食糧管理法で国による管理が強いられた長い歴史を経ての今現在、日本国民の食料の消費構造はすっかり変化し、同時に人口減少による消費量の絶対数は減少し、しかも米市場はグローバル化の圧力の前にその厚い保護政策は穴を広げている。
農業の安全性についても変化が求められています。70年代80年代から勢いづいた機械化と農薬の進歩と普及は資本主義に駆り立てられた勢いで、もはや自然の産物からかけ離れた工場での製造物のようなものを目指しています。
そして今さらになって農業による自然環境への負荷低減と食料自給における国家の安全保障面での価値の見直し、農業という産業を支える原料(原油や肥料の原料)の海外依存の刷新など数々の課題が積み立てられて農業者たちは悲鳴を上げている。
いったい農業とは何のための産業だろう。特に稲作農家としては、稲作の本当の在り方とは何なのか。そんな疑問が絶えません。
そのヒントがつい6月から7月にかけたとある出会いの中で見つけることができたように思えます。
農協の青年団体である農青連の活動として、福島県会津喜多方市の熱塩加納小学校で行われる「田んぼの生き物調査」という活動に参加してきた時のことです。
本来はこの日の活動内容は、野外に出て小学生たちと田んぼで生き物を捕まえてきて、新潟県佐渡島から特別講師として招かれた農業普及員に生き物の解説してもらうというものでしたが、あいにくの大雨で中止。
かわりに特別講師が事前に捕まえていた生き物たちを生徒たちに見せながら生き物の解説をし、最後はプリントを使って生き物たちの生態についての問題を解いて答え合わせをしました。
熱塩加納小学校の取り組みが紹介されるのですが、子供たちに農作業を積極的に体験させ、作物はすべて有機栽培で育てていました。
農作業という体験が子供の発育に何の作用があるのか、その科学的な根拠を私は持ちません。しかしその効果の大きさを目の当たりにする出来事がありました。
田んぼの生き物調査にゲスト参加として福島大学の食農学類から教授と大学院生と学生の三人がいました。その大学院生の実家では納豆を作っているのですが、それを聞いた小学生の一人が大学院生から納豆の作り方を聞きたいということで質問攻めにしました。
我々の控室として割り当てられた音楽室に、見知らぬ大人たちがゾロゾロとたむろする所にその小学生は臆することなく入り込んで大学院生を捕まえてのその光景である。
大学院生は小学生のあまりにも熱心な姿勢となかなか終わらない質疑応答のやりとりに窮して、ついには「ちょっと、外で話そうか」と連れ出す始末でした。
そのやり取りを横で見て私は衝撃を受けました。その小学生の好奇心、探究心、自発性、コミュニケーション能力、度胸というか物腰、礼儀正しさ。これがテレビゲームなど高度な娯楽に囲まれた現代の子供だろうか。まるで違う。
身体は小さいけど、その中身には大きなものを持っていると私は確信しました。これが農作業を教育に取り入れた成果の片りんなのだろう。
現代の農業には景観の維持や地域社会の結束や災害予防などといった多面的な機能性に価値があると認められています。しかしまさか子供の内面発育に絶大な効果があるとは思いもよりませんでした。
まさに教育的機能性における価値とでも言いましょうか。受験戦争学歴社会という名のジハードに取り付かれた現代日本の価値観からかけ離れている世界を見たように思えます。
そんな価値観ができ上る前からあったはずなのに、いつのまにか見失っていただろう、人間の尊厳を醸成する場所。そんなイメージを私は熱塩加納小学校に強く結びつけることになりました。
そしてその熱塩加納小学校みたいな場所は意外にも日本にはいっぱいあって、しかもドキュメンタリー映画となって認知を広めているということを知りました。
いったんここで区切って次回は↑について書こうと思います。