蕎麦打ち動画制作完了
蕎麦打ちの解説動画を改めて制作しました。
本格的に蕎麦打ちを習得したい人向けに、できるだけ細かな解説を加えました。
いざ動画を作ってみれば、ひとつの動画にまとめるにはとても伝えきれない事が実感されました。
このシリーズはこれからも繰り返し作り続けることになるだろうと思います。
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蕎麦打ちの解説動画を改めて制作しました。
本格的に蕎麦打ちを習得したい人向けに、できるだけ細かな解説を加えました。
いざ動画を作ってみれば、ひとつの動画にまとめるにはとても伝えきれない事が実感されました。
このシリーズはこれからも繰り返し作り続けることになるだろうと思います。
1月30日道の駅あいづ湯川・会津坂下にて手作りの商品をテーマにしたイベントが開催されました。
それに合わせてイベントを盛り上げるために雪像を作ることになったので、私はそのお手伝いをしてきました。
今年の干支が虎ということで、雪像はこどもちゃれんじのしまじろうを制作。
全高3メートルでなかなか大変でしたが、雪を噴射する除雪機を利用してなんとか十分な高さまで雪を積むことができました。
顔の部分を丸く成形したら耳をつけて顔を作ってあらかた完成。あとは身体の方を作っていきます。
制作している時に道の駅の関係者さん達から差し入れを頂くことが度々ありました。
身体は足を前に出して座っている格好にしました。細かな作り込みは担当者の人たちにお任せして、お手伝いの身である私は周辺の雪をならしたり指示を受けて作り込みに加勢したりといろいろと立ち回りました。
制作期間は4日。大体の形を作るところはかなり早く進むのですが、形の違和感を対処するのにあーでもないこーでもないと迷いが始まると一気に進まなくなります。そうなると動くことも無くなるので身体の発熱が起こらず、寒い中じっと待つだけになってしまうのがいちばん辛かったです。
道の駅の雪像はあくまで技術習得の為の予行練習のつもりでした。
本当に忙しくなるのはこの商工会青年部で作る巨大雪像になります。
商工会青年部主催の冬祭りを開催するにあたって見栄えのある雪像を作る計画があり、私はその責任者となっていました。
雪像のテーマは道の駅の時と同じく「虎」。冬祭りの主催者側はポップなデザインを着たいしていたようですが、あいにく私の考えはリアル志向で進めておりました。
商工会青年部からの注文ではメッセージを掲載する土台があって、その上に雪像を作るというもの。
計画では全高4メートル級にもなる、素人の初仕事にしてはなかなかの難題となりました。
土台の部分だけは単純に機械で寄せ集めるだけで済みましたが、問題はその上に作る雪像。
この時に取った方法は、まず雪を箱状のもので固めてブロックにして、そのブロックを積み上げて壁をつくる。
そしてその壁に向かって雪を積み上げて補強する。強度がついたら壁に向かってラッセルで周辺の雪を噴射してさらに盛る。そうしてできあがった雪の塊を削るなり盛り付けるなりして目的の形に成形していきました。
この雪像を作るにあたっては、去年の道の駅イベントで猫バスを作った人を雇いました。私はその助手で雪像作りに従事しました。
当初の理想では虎の全身を作る計画でしたが、レベルを少し下げて虎の顔を大きく作ることに集中するということになりました。
この時もやはり虎らしさに向けて作り込む段階になって進行具合は膠着。顔正面は雇った人に任せて私は後頭部の整形と土台周辺の整理に努めました。
開催当日の二日前に打ち上げ花火現場の除雪を任され、若宮ばくさくのトラクターを持ち出して業務遂行。
この後もしばらく雪像の仕上げに取りかかりました。
冬祭り当日には打ち上げ花火現場の警備の仕事もあったのですが、雪像完成で安心したのか私は二日間寝込んでしまいました。
冬祭り当日もその翌日も外に出ることができず、復活して雪像を見に行くと連日の晴天にやられて泥土が表面化してしまいました。
手が届く範囲で顔の部分を綺麗な雪で塗り重ねしたのですが、少しだけマシになった程度。
道の駅の雪像も同様に原型を残すのみで細部の作り込みは見当たりません。形あるものの消えゆく定めに儚さを見いだしてしまいます。
1月末に道の駅の雪像制作のスタートから2月中旬の冬祭りの雪像完成に至るおよそ半月の期間は実に忙しくて目まぐるしい日々だったと思い返します。さらには年越しの蕎麦打ちから思い返しても七日堂裸参り、初市大俵引き、東京の出張蕎麦打ちと続けざまに必ず催しやイベントがあったので、いつも仕事が無くて暇なはずの時期が今年は刺激で満たされておりました。
やりがいのある事をたくさんこなすことができて、今までの巡り合わせにも2つの雪像たちにも感謝の気持ちが起こります。
気がつけば3月に入り、春作業の算段などで少しずつ忙しくなります。今年の自分は暖機運転に抜かりが無かったので、快調なスタートダッシュができることだろうと思います。
雪像の件ですが、町長が直々に激励に来ていただけました。このほかにも新聞に載ったり町の広報に取り上げられるなど、少々目立ちがちになってしまって恥ずかしいです。
福島民報社から頂いた随筆のお仕事4回目には、少し勇み足を出してしまったような気がします。
よりにもよって堅苦しいような、気取ったようなテーマを選びました。
そもそも「武士道」なるものに対して、アニメや映画など娯楽でしか培われたようなイメージしか持ち合わせておらず、何かの機会で理解を深めたいとは思っていたところでした。
その理解の助けとなる手がかりを求めて取り寄せた書籍は以下のふたつです。
ルース・ベネディクト「菊と刀」
ついでにダメ押しでもう一冊がこれです。
民報サロンにも書いたとおり、私の地元は戊辰戦争の現場でした。会津藩は滅ぼされ、白虎隊は自害。生き残りは北海道へ行ったり、アメリカの西海岸に移住したりと苦難の道を歩みました。
それから一世紀以上経った現代では、毎年慰霊祭が執り行われ、墓前では剣舞が奉納されます。
慰霊祭が社会として戦没者たちに寄り添う形ならば、私が個人として彼らに寄り添った気持ちを何かの機会で文章にしたいとは思っていたところでありました。
武士道への好奇心と、戦没した会津藩の先人たちへの個人的な追悼の気持ちのふたつを同時に文章で形にする。それを民報サロンというメディアで実現する機会が訪れたのは、とてつもない幸運だったと思い返します。
執筆を一度終えて福島民報の編集者に送信した後も締めの文章にしっくり来ない気持ちを抱いたまま、近藤勇にゆかりのある愛宕神社を参拝してきました。
お参りを済ませ、長い階段を降りているときにふと「性善説」という言葉が浮かびました。
家に帰ってからも妙にひっかかるキーワードだと思い、頭の中でこねくり回して出てきたのが、震災の直後でも略奪行為が起こることの無かった日本人の品格の有りようでした。
海外から絶賛されたこの日本人特有の社会性の高さは、義を重んじる昔の人々の規範にあるはずだと思って綴ったのが民報サロン文中の最後の箇所になります。
武士なる者は文武両道というように武芸に限らず文化的な教養が求められました。そこには、武士という戦闘階級に立つ者であるからには、生きる事の喜びを常に理解し深めなければならないという切実な哲学が秘められています。
命の駆け引きをする立場にあった武士とは、戦争の道具でもなく、戦場の消耗品でもない、精神的にも肉体的にも人として完成され尊厳に満ちた存在でした。現代でいうなら宇宙飛行士に匹敵する人物像だった事がわかります。
時代の大きな隔たりの向こうで武士道に生きた先人たちを思うと、強い尊敬の念を覚えます。
明治維新以後の西洋化に加え戦後のアメリカ的価値観に見る競争主義と物質主義が日本に浸透する以前は精神的なものに重きが置かれた価値観がありました。
誰もが内に潜める仏性の開花を待ち望み、虚飾ではなく純粋さを貴ぶ。静けさの中の凄みという表現が的を得ているでしょうか。
道具を使い捨てする事に慣れ、環境負荷を代償にした快適な生活に胡坐をかいた大量消費型の生活の中で失われつつありながら、まだ日本の随所に見出す先人たちの心の面影を見つけるたびに、とても愛おしい気が沸き起こってなりません。
この時の民報サロンをきっかけとして、そんな気持ちを強める事となりました。日本文化の再発見と言いましょうか。とても有意義な仕事だったと思い返します。
以下は民報サロン掲載となた文章のテキストデータを残します。画像よりは読みやすいと思います。
武士道と性善説
第二次世界大戦のころ、ドイツ占領下のポーランド市街地でレジスタンスたちは狭い地下通路を通れる幼い子供たちを連絡手段として動員していました。
捕らえた子供に銃を突きつける兵士の姿を捉えた白黒写真が目に焼き付いて離れません。
イスラエルにはマサダ要塞という遺跡があります。籠城戦の末に兵士たちは家族たちと心中を遂げたという悲劇で知られます。
現代の悲しいニュースと重なるように、一家の長が順々に家族を手にかけ、最後には自害したと聞きます。
家族を巻き込んでの極限状況に臨み、悲劇を迎えるにあたった人たちの心境を思うとゾッとするほどに冷徹な深淵を覗いた気がします。
その同じような深淵を見せた歴史的な場所のすぐ近くに私は生まれ育ちました。
この会津に生まれながら、私はどうしても意識せざるを得ない疑問を持ち続けました。
なぜ、会津藩は無謀な戦いに挑んだのか。まるで昭和の玉砕を思わせます。
現代の年齢基準と照らし合わせるのも筋違いではありますが、年端のゆかない少年兵を動員しての家族を巻き込んだ総力戦は壮絶な印象を残します。
幼いころから白虎隊の話を聞いて育ち、年齢的に彼らを見上げる立場だったのがいつの間にか一回りも二回りも越してしまいました。
しかしながら自分の中での彼らの精神的な位置は未だに高いところに居続けています。
今では英霊である彼らをして、遠い未来で歴史の本に取り上げられるとも知れず血の通った肉体を持って人生を送っていた頃に彼らの内部に培われた倫理とは何だったのか。
武士道という思想を理解するために私が紐解いた書籍から帰結したのは,
今の健全な男性が持つ一般的な価値観と何ら変わらない、強さへの憧憬ではなかったかとの結論でした。
西洋化がなされた私たちの価値観では、強さとは逆境や障害などを切り開くものとして定着してますが、彼らの時代では違いました。
私情を殺し、己の幸福を捨て、為すべきことを為して義理を全うする。それがたとえ悲運だとしても、忍従し立ち向かう。
武士道には、市民革命で自由を獲得していった西洋の歴史とは相いれない、既存の秩序を厳かに守る価値観が読み取れます。
主に哺乳類の話ではありますが、牙や爪など強い殺傷力を持ち合わせる動物に限って高度な社会性を持ち、家族を形成します。
その観点からすれば、武器とは社会の裏の姿であり、武器の発達と社会の発達は密接な関係性が隠れている筈です。
戦闘階級という社会の構造を捨て、様々な犠牲と幸運の上に成り立った平和を謳歌する今のこの時代、日本刀は美術品としての価値の中に落ち着いてます。
その厳かでいて美しい日本刀が、人命を左右する実戦での実用品とされた時代に裏写しとした社会とは何だったのか。
仏教の教えでは人は本質的に善であり、皆いずれは仏になる可能性を秘めていると教えます。
武士道で重んじられる仁・義礼智信、五常の徳とは世の性善説を護る手段であり、それらを全うする道とは性悪説と戦う不断の努力であったとは言えないでしょうか?
災害が起きても警察力に頼ることなく秩序を重んじる日本人の在りようの奥底には、命を以ってして武士道に殉じた会津藩士の精神が生きていると私は信じます。
目まぐるしいほどにイベントが続いてブログ更新を怠ってしまいました。稲刈り後の農閑期はいつも暇になる気がしていたのですが、おちついて読書を楽しむ暇もありません。休日という休日には何かしら町でイベントが催され、そこに蕎麦を売り出したり提供したりと何らかの形で加わって忙しい日々が続きます。
12月18日。年末の年越しそば打ちを目の前にしたこの時期は充電時期なのですが、ずっと突っ走っていた気分です。まずは施設をリニューアルした若宮コミュニティーセンターのオープン記念イベントにて生蕎麦の売り出しをしてきました。会場は隣接体育館を利用し、様々な売店が設置され、子供が描いた絵の展示や射的、落語が催されました。
続いて12日は農村環境改善センターにて入客数300名と大規模な蕎麦ふるまいをお手伝いしてきました。
掛け汁は鰹節と昆布による追いダシにネギの青みを加えて甘みを加えたもの。珍しく鶏肉とごぼうがありません。
蕎麦茹では外に設営したテントで作業しました。寒さに耐えながらのなかなかの苦行です。
翌日の19日。道の駅では会津の物産展が開催されました。若松や喜多方など坂下・湯川以外を含めた会津地方の食や工芸品が売り出されてました。ばくさくは関係してませんでしたが、坂下町の観光物産協会が出店していたブースにお邪魔してきました。ついでに記念写真を撮影。
1月7日は柳津の七日堂はだか詣りに参加。写真には写ってませんが、下帯一丁のほとんど裸同然で極寒の街道を走り、円蔵寺のお堂に集まって甘縄をよじ登るお祭りです。私は一回だけ挑戦しましたが握力が足りなくてとても無理でした。鍛えなおしてまた来年挑戦します。
お酒を飲んでしまったので現地のホテルに宿泊。チェックアウトの際に商品券2000円をもらったのでぱん工房あかべこで3500円分の買い物に使いこみました。
2日後の1月9日は道の駅あいづ湯川・会津坂下にて蕎麦の試食販売。運悪く大雪の日に当たりました。外にテントを張ってそばを茹で、屋内に持っていって無料でお蕎麦を配ります。
賄いもお蕎麦。
1月14日は坂下町の大俵引き。
私は農業の青年団体として初市に出店。焼きそば屋と焼き鳥屋を催しました。
俵引きに参加の様子。今年は白組でした。この時も七日堂はだか詣りと同様、下帯一丁になっての裸同然の姿で雪の中、坂下町の街道にて大きな俵を紅組白組に分かれて綱引きします。この日は風が強くて笑えるほど凍えました。
この翌日にはさすがにこたえて寝込みました。年が明けて以来、一日中ゴロゴロできたのは結局体調を崩してからとなりました。
次の写真は最近ハマった豆炭あんか。このレトロな暖房グッズで冬の就寝が楽しみになりました。
新年明けましておめでとうございます。ブログでのご挨拶が遅れました。
コロナ禍が第6波の兆候を見せ始め、新年早々から世相の雲行きは怪しいです。
今年の干支は虎ということで、苦境を跳ね返す攻めの姿勢で乗り越えられる一年になることを願います。
上の方は会社の年賀状の裏面ですが、下は個人の年賀状で描いたイラストをアップしました。バイク・車好きではベタな発想ですが、イギリスのオートバイメーカー「トライアンフ」が昔作っていたスポーツカーをテーマにしました。
もう半年前となりますが、福島民報新聞社から頂いた民報サロンのお仕事三回目には、稼業である蕎麦をテーマとして取り上げました。
文中にも書きましたが、社会人としての自分の歩みを振り返れば蕎麦との縁を無視することのできない生き方でした。
初めて就職した裏磐梯のホテルでは秋から年末にかけての集客戦略で、他のホテルでもやってるような蟹からの脱却を模索してました。
そこで支配人が目をつけたのが、新そばシーズンということで蕎麦打ちと蕎麦を使った創作料理でした。
夕食レストランでは蕎麦打ち披露のポストが設けられ、私がその主戦力として抜擢されました。
巡り巡って今は自分の家に帰ってきて稼業に就いて蕎麦打ちとして本格的に稼働してます。
会津坂下町の蕎麦は北の山都、南の大内宿に挟まれ全国的な知名度は低いですが、太い一本棒を使った丸伸しの十割蕎麦として地元で定着しております。
独自性を材料に大内宿と山都に対抗して蕎麦屋街を建設するなんて古いやり方はもう通用しないでしょう。
私個人としては、このままふたつの有名なそば処に挟まれた、知る人ぞ知るマイナーなそば処という地位が好みではあります。
もしここにテレビなどが取材に来れば、坂下町の蕎麦の認知度が一気に高まって蕎麦の需要が急激に上がってしまい、それに追いつけない稼働率を必死になって回して私たちは消耗することでしょう。
テレビでの宣伝効果は一過性です。一年二年もすれば客足は急激に下がり、やがて忘れ去られます。
そうすれば大量消費に対応したはずの生産体勢は大きな空振りとなって、せっかくの設備投資その他は長きにわたって業務を圧迫する足かせとなるでしょう。
そんな未来図を描いて心にしまいながら、私は地元の蕎麦打ち達と一緒になって地元の蕎麦イベントに加わっております。
不遜とは思いますがそんな風に自分なりの未来図を描いた上で反省したのは、自分には蕎麦打ちの過去についての勉強が不足しているということでした。
この際、蕎麦打ち文化の歴史に触れて見識を深めておくことは、坂下町の蕎麦文化の盛り上げ方にも地域おこしにもその方向性を作り上げる助けとなることだろうとおもいました。
これまで私が蕎麦に抱いていたイメージとしては、作物が育つには厳しい豪雪地帯で食いつなぎとしての価値しかなかった負け組の食料というものでした。
それが江戸時代には民衆の間で即席の手頃な麺料理として親しまれていたと言います。
当時の交通網の要所には必ずと言っていいほど蕎麦屋があったように、今で言えば差し詰め、ドライブインだかコンビニでありつけられる定番メニューみたいな存在だったのでしょう。
そこまで知って、蕎麦とは仕方なく食べていた不味いものというイメージはすっかり取り払われました。かえって蕎麦に関して好みのうるさい偏屈な愛好家がいたというのは、現代に限らずかなり大昔から蕎麦屋さんの悩みの種としてあったほどです。
戦前には信濃一号という高品質高収量の品種が開発され、全国での作付けが展開されました。
しかし信濃一号による蕎麦の品種の一本化に抵抗して、もともと地元で作付けしていた在来種を守るために地方が動いたという歴史もあります。
蕎麦が地方の郷土愛を刺激した一例として、私には印象に残りました。
人口も経済も文化も進学率も大都市圏に集中する圧力は集団就職の時代に見るように昔から大きな流れとして続きました。
それでもしばらくはベビーブームと好景気で地方の支えは保たれましたが、不景気と出生率の減少が地方の縮小に結びつき、過疎化に悩む現在に至ってます。
その大都市圏に集中する構造が今になって崩れ始めているという感触が無視できないほどに目立ち始めています。
大企業に勤める事よりも自分で会社を立ち上げるか中小規模の法人が新規の切り口を開いて成功するケースは某テレビ番組で見聞きする事からもわかるとおりです。
大量生産されたどこにでもある製品が安く売られていても、小規模の生産能力で手作りされた商品が強気の値段に関わらず市場に受け入れられている実態があります。
昔は大企業や大都市に集中する時代だったのが、今は独自性を武器に新規の活路を切り開く拡散の時代へと移り変わろうとしているのでは無いかと私は考えてます。
その新しい時代に合致した形で、これからいろいろな地方都市が立ち上がってくる未来が見える気がします。
望めるなら私の地元である会津坂下町もその流れに乗せることができた上で、加えてこの町に限らず柳津町や三島、金山などその周辺の山間部へと経済効果を波及させるという未来図を夢見てなりません。
とりあえず、その坂下町が町起こしの武器の一つとしての蕎麦の分野で、自分にできることをやりきる為に目の前の仕事に注力するのみです。
半年前に書いた民報サロンを振り返るための文章にしては私見が過ぎました。
これが半年どころか10年20年と大きな月日を経てから読み返す時には、自分は何を達成できているだろうか。今の思想に変化はあるだろうか。何を夢見ているだろうか。
そんな不安と期待の入り交じった気持ちがしてきます。まるでタイムカプセルを埋める時の小学生のような気持ちです。
自分が書いた民報サロンを今から10年後20年後に読み返す時には、せめて小学生から脱していたいと望んでやみません。
以下には民報サロン第三回投稿の完全版を公開いたしますので、ご自由にお読みください。
ちなみに題名は参考文献の中に取り上げられていた漢詩を引用しました。
月明らかにして、蕎麦花雪のごとし
今回は私が家業としている蕎麦について取り上げさせていただきます。
蕎麦の花言葉は、懐かしい思い出、喜びも悲しみも、あなたを救う、幸福とあります。
なんとも単純にはいかない内容です。バラなら情熱とか、ユリなら威厳とかみたいに一つの言葉にまとめることはなかったのだろうか。
花言葉というのはだれがどのようにして決めたのか、一人の高徳な人物が一方的に決めたものではなかっただろうとは思います。
たくさんの人たちが世代を重ねるうちに形作られ、今の形として定着したのが花言葉なら、蕎麦が人間との関わり合いの中で今までに辿ってきたものを総合すると一つの言葉には納まらなかったのでしょう。
その花言葉の真偽を計る素材の一つとして、私が辿った蕎麦との関わりが参考になるかもしれません。
私のそば打ちとしての家業は歴史のあるものではなく、趣味として始めた父の代を発端としております。
私が物心つく頃には年越しそばの手伝いをするようになり、今までに年末を平和に過ごした記憶はありません。
手伝いと言っても私はそばを練る「でっちり」の工程止まりで、そこから先の「延し」「切り」には興味を持つことなく成人しました。
転機が訪れたのはホテルマンとして裏・表磐梯で働いていた時のことです。秋冬シーズンの集客戦略としてどのホテルも一様にカニの提供に注力していたところを、私のホテルでは路線転換して独自色を打ち出すのに担ぎ出したのが蕎麦でした。
私は磐梯町の山中にある「そばさだ」で初めての本格的なトレーニングを受け、ホテルレストランでのそば打ち披露のポジションを務めることになりました。
それまで大して興味を持つこともなかった蕎麦打ちが、急に私を支配するようになりました。
俗な言い方ですが、蕎麦の神様が私を追いかけてきた。そんな感覚がぬぐえません。
実際、今では蕎麦打ちなるものが家業としてもそうだし、人とのつながり、地域とのつながりとしてすっかり私を取り囲んでます。
今のこの段階で先にあげた花言葉と照らしてみても、なんとも符号するところは無いように思えます。
別に懐かしむほど年月を積み重ねたわけではなく、目立って浮き沈みがあったわけでもなく、幸福かと言えば忙しさが増したとしか言えず、ただ言えるのは日本に根付き郷土に育まれ今ある形としての蕎麦の食文化に自分が生かされている事に尽きます。
とりあえずは、「救い」の二文字に尽きるのが今の私からひねり出せるキーワードとなるでしょう。
福島県会津地方へのそばの伝承は信州を起源とします。良質な蕎麦を育む環境に恵まれた信州は会津に限らず、出雲・山形・出石など今あるそば処各地に流出しその礎となりました。
会津坂下町の場合は信州の流れに加え、山都と大内宿との角延し蕎麦の名所に挟まれながらも十割と丸延しにこだわる点には奥只見の桧枝岐村に行き着いた平家の落人の裁ち蕎麦からの加味もありそうに思えます。
会津坂下十割蕎麦の発祥は金山町にあり、そこから会津坂下町高寺地区の加藤そば道場が支流となりその流派が坂下町の蕎麦打ち文化を主に構成してます。
ちなみに坂下町北端となる長井地区は戊辰戦争の頃は鶴ヶ城の非戦闘員たちの疎開地という歴史があり、会津藩直伝のそば打ち文化が残された場所となります。
私は自分の流派への帰属意識が薄く、勉強のつもりで門外のそば打ち体験に行くことが度々ありました。
その中で近藤勇の墓がある若松市の愛宕神社に斜向かいとなる桐屋夢見亭のそば道場に習ったことがあります。
そこにはそば畑の写真が飾られており、一面が雪原とも見まがう見事なそばの花の景色が映されてました。
その真っ白な色彩の中にひとつだけピンク色の花が混じってます。店主が教えてくれましたが、先祖返りというものでした。
日本の蕎麦の祖先種はシベリア大陸の高地に自生しており、韃靼そばと同じように赤い花を咲かせます。
日本の蕎麦は白色ですが、たまに祖先種と同じ姿で育つ個体が混じってしまうそうです。なんとも神秘的な特性だと感動しました。蕎麦は自分たちの始祖の姿に目覚めることができるとは。
人間の場合でも、先天的な知的障害者は人間に意識が芽生える以前の古代人の姿であるとの説があります。(出典「神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡」ジュリアン・ジェインズ著)
人と蕎麦の共通点についてもうひとつ、人間の身体の水分量が蕎麦と同じという話もあります。
これは宇宙の元素の組成比と、地球上の生命を構成する元素の組成比が同じという話に繋がる気がして止みません。
宇宙は生命であり、蕎麦は人である。そんな妄想を掻き立てます。
11月は新そばシーズンでとにかくそば打ちに振り回されました。前回のブログの後もそばイベントはもうしばらく続きます。
地元の会津坂下町のイベントで、まちゼミという参加型イベントを開催しました。
それにわが社も加わり、そば打ちイベントを開催。当時は忙しすぎて写真の記録など残す暇がなく、取材に来てくれた町職員のブログが頼りです。
ばくさくのまちゼミの様子が記録された商工会ブログはこちら→(https://ameblo.jp/aizu-fukkoshienin/entry-12712941072.html)
今年の新そば出荷のシーン。現そばを積んだ軽トラ中トラ混成で隊列を作り、農協の倉庫に押しかけます。
そば粉を詰めている作業です。
道の駅に生蕎麦を納品。陳列棚には新そばアピールのポップを貼り付けました。
日曜日開催の試食販売の様子。道の駅での試食販売は4年も続けて冬入りの風物詩となりました。
柿の収穫。霜が降る前に身しらず柿を全部収穫してしまいます。
柿の葉っぱに取り付いた何かの卵を発見。
柿をコンテナに詰めて農協に出荷します。
機械・設備関係の冬支度。みんな綺麗にして整理します。
こちらは籾乾燥と籾摺り機の掃除。虫が住み着かないように全部分解して内部の籾を掃除機で吸い取ります。
仕事の合間のグルメ。いつも食べに行くキッチントヨボのオムライスカレーとジャムトースト。
このブログを書いている今の会津地方はすっかり盆地を囲む産地が雪に閉ざされてしまいました。もう冬眠に入るしかなさそうです。
バイクシーズン終幕のひと時を振り返ります。
休日であって結局休日にならない祝日の午後に仕事から解放されて那須塩原を目指しました。
本当はライダーズカフェボビーが目的だったのですが、到着した時は店じまいの時刻。どこか開いているカフェをさがして辿り着いたのが旧車好きが集まるところでした。
店主さんはとても優しくて、ボロバイクで乗り込んできた私でも快く迎えてくれました。驚くべきは地理の把握力です。私の地元の事を熟知している様子で、西会津もわかる、別れの一本杉もわかる、私が勤めていた裏磐梯のホテルも知っていると、こっちの土地の事を話すとことごとく知悉しているようでした。
頼んだメニューはチーズケーキとコーヒー。おなかをいっぱいにする
カフェではなく、コーヒーを飲みながら会話を楽しむ社交の場という気がしました。なんにしろ軽トラと原付が基本スタイルの私では身分にそぐわない異空間という感想を持ちました。
帰りの道の駅しもごうにて休憩したらケミカルのセールスに会いました。寒くて暗い中、一人で営業していた女の子の真面目さを見ると、拒むのも不憫に思えて購入。ボディのサーフェイス処理剤のようです。
ツーリングのご機嫌が続くうちにブーツをメンテ。ハーレークラブ会津支部長から頂いたものなので大切に維持してます。
ついでに安全靴も処理。長年の酷使に応えてくれた恩に報いました。
最後に特別栽培米の宣伝動画のお知らせ。
そばの粉ひきで発生する残渣を肥料として有効利用して育てた有機栽培米を宣伝するために、土鍋で炊きあがったところを動画にしました。
購入ページはこちら→(https://bakusaku.thebase.in/items/53509796)
今年の稲刈りは珍しく10月後半に終えることができました。ほっと一息つけるかと思いきや、新そばシーズンに突入しててんやわんやの毎日でいつの間にかブログの更新が途絶えて半月以上経ってしまいました。
稲刈りを終えた後に待ち構える微粒子との闘い。そば刈りを前にして、乾燥機の中に入って掃除をします。マスクだけでは足りず、タオルで鼻口を覆っての作業です。息苦しさに耐えながら内部のジャングルジムみたいな足場を伝ってごみを落としていきます。
そば刈りを終えると再び乾燥機清掃を繰り返します。それが終われば後は来年の稲刈りまで稼働させることはありません。乾燥機の設備は長い眠りに入ります。
フォークリフトのタイヤを自力で交換しました。いつもはメンテしてくれる業者任せでしたが、経費の節約と個人的な好奇心もあって自力でのタイヤ交換に挑戦しました。
純正ではダンロップ製でしたが、ネット通販で取り寄せできるのはブリヂストンのみでした。
しかしある日、佐川急便の受付のカウンターに置いてあったダンロップのタイヤカタログを見てみるとちゃんと載ってました。きっと一般人には手に入らないような形態で流通しているのだろうと思います。
リアタイヤのみの交換。ホイールは裏表分割式のチューブタイヤ。普通の工具では対応できない箇所があってもなんとかやり遂げました。
この次の日には久しぶりのツーリングに出かけました。午前中に自由に走れるのはとても久しくできていなかったことです。
下はこの日に撮ってきた車載動画です。場所は新潟県の長岡市周辺のマイナーな峠を走行したものです。
お世話になっているセーリングにて格安で売りに出されているドイツ製の原付二種。ザックスというメーカーのものでかなり珍しいもの。おもちゃとしては魅力的なのですが、消耗品の入手とニーグリップができないところが難点です。
11月上旬には道の駅で新そば祭り開催しました。
そばの提供形式は去年と同じで売り切れ次第終了。祝日の三日と平日の四日にわたる二日間の開催でした。
初日の三日は大変な入客数で四十分待ちの行列ができていたそうです。私はゆであがった蕎麦の水洗い作業に追われてわかりませんでした。
次の平日では入客数はいたって穏やか。それでも撤収にはいい時間である15時くらいには売り切れたので、残量を残す事もなくすっきりして終わることができました。
激務に追われて、暇を見つけてはツーリングにお出かけ。日照時間に見合わないプランを強行して結果、秘も沈んで気温も落ち込んだ時間帯にひたすら寒さに耐えながら家路を走ることもありました。
この日の走行の様子。
稲刈りが終わりました。今年はなんとか11月入りせずに終えることができました。
稲刈りの序盤と中盤では比較的晴天が続き順調に進行。
後半には雨に降られて長引きましたが例年に比べて早めの終了となりました。
稲刈りと同時進行で肥料振り。田植えと違って稲刈りでは比較的人手が余るので来年春の作業の短縮を目的に肥料撒きをある程度まで進めます。
今年も頑張ってくれました日野レンジャー。4tの積載能力はかなり有能でとても助かる存在です。
日照時間も短くなり気温は低く、夏のころにくらべて朝夜の冷え込みは大分進みました。越冬に向けた虫たちの動きが活発なのか、おなかを膨らませた雌カマキリが乾燥小屋の近くをウロウロしてました。写真を撮った後は施設に隣接した草むらに逃がしてあげました。
こちらの地元である会津坂下町から北北西に見える飯豊山はすっかり山頂が白くなりました。天気が良くて山の形がくっきり見えるときはすぐ山頂まで行けそうと思えるほど近く感じます。実際はあの尾根まで到達するのにどれだけの体力を消耗したことか。去年の夏に登った時の風景が思い出されます。
東に転じて会津磐梯山。山頂に紅葉の様子が見て取れます。今頃裏磐梯は紅葉で見ごろの事でしょう。
ゆっくり休みたいところですが間髪入れずそば刈りのシーズンとなりました。
新そばシーズン入りは始まっており、蕎麦打ちとしての宿命の繁忙期にこれから突入します。そしてそれが落ち着き次第、年末の年越しそばが控えてます。
コロナ禍で米の値段も蕎麦の値段も低迷とは言いますが、忙しさは変わることがありません。
多難の時代の今、ただただ自分の能力を生かして仕事ができる事だけでも感謝するべきなのでしょう。いち農家として蕎麦打ちとして、いつか開けるだろう希望ある未来に向けて自分の為すべきことに精を出す気持ちをこれからも強く持ち続けようと思います。
11月に入れば間もない時期に、道の駅あいづ湯川・会津坂下にてそば祭り開催します。そば処の大内宿と山都に挟まれたここ会津坂下でしか味わえない正真正銘の十割蕎麦の味をぜひ堪能ください。